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館長鼎談

私たちの歌─湖沼会議に寄せる─


2001年6月2日 琵琶湖博物館にて



滋賀県立琵琶湖博物館
研究顧問 嘉田由紀子
歌手
加藤 登紀子
滋賀県立琵琶湖博物館
館長 川那部浩哉

研究者どうしの話よりも、琵琶湖に来てここの人たちの活動をむしろ知りたいようですから。

具体的に琵琶湖と触れ合った人の、「しずく」が凝縮されたものを私がキャッチできるようにと、それを目指しています。

「みんな普通の言葉で喋りましょう」と。そうすればみんなわかる。それによって専門家も、学問の基盤を洗い直せるのですから。

先祖はともに琵琶湖のほとり

加藤■父の家系は琵琶湖のほとりで、守山市木浜の津田という家なんです。祖父が京都に出て、呉服屋を始めました。歌手になったあと父は、「琵琶湖に行ったら木浜に寄れ」とよく言っていました。

川那部■木浜はこの琵琶湖博物館のすぐ近くの、まさに湖の畔のむらですね。私は京都生まれの京都育ちですが、三百九十年ほど前に加藤さんと同じ守山市の金森から移ってきたのだそうです。

嘉田■お二人とも、先祖は琵琶湖の畔だったんですね。これは意外でした。

琵琶湖の表情とくらし

加藤■今年から嘉田さんの呼びかけもあって、琵琶湖にこだわり始めたんです。それでこだわればこだわるほど、琵琶湖を何も知らなかったんだなあと思うようになってきました。
 例えば琵琶湖の島の中で唯一、人がずっと住んでいる沖島で、琵琶湖と深くかかわっている暮らしを目のあたりにすると、びっくりするばかりです。
 また去年から凝り始めて、マキノからずっと北のほうをあちこち動きながら、写真を撮っているんですが、琵琶湖の表情はほんとうにもう千変万化ですね。それも以前の姿がまだまだ残っていますし…。

川那部■そうですね。私は一九六〇年代前半に三年間、かなり時間を費やして、みんなで生物をいろいろ調べたことがあります。まだ琵琶湖を一日では、車でも一周することの困難な状態でした。
 博物館へ来てから五年になるんですが、それ以後はまだ、そのときのようにきちんと琵琶湖を回ったことがありません。必要なとき必要な地点にぽっと行く程度で、まことに残念です。あちこちに心を引かれるところがあるので、じっくりと改めて調べたいと思ってはいるのですが…。

加藤■昨日、礼文島・利尻島から帰ってきたのですけれど、島の魅力と湖の魅力とは、水と陸とは逆ですが、何か一体感があるという点では同じですね。周辺が一つの輪になっていて、内に向かうエネルギー、そういう吸引力があります。
 琵琶湖は少し規模が大きいですけれども、やっぱりそういうものが琵琶湖の周辺の人にも、あるんじゃないかと思って…。

嘉田■地に足が着いているといいますか…。近江では、三世代経たないと一人前には認められないとよく言われます。これは今まで、排他的であるとか言われ批判もされて来たようですけど、一方的に悪いところじゃなく、そこの地に暮らすことに自信を持ち、ちゃんと先祖代々のつながりを大事にしていることなんです。声を荒らげずに、こっそりとですけれど…。「在地」とでもいうのでしょうか。

加藤■琵琶湖のほとりには今でも、昔ながらの生物の営みがある、しかもいろいろな昆虫や魚が、まだ人々の暮らしに溶け込んでいる、という番組が先日ありましたね。あれは素晴らしい作品でした。

嘉田■今森光彦さんの映像でしょう? 昔はあたりまえのことでほとんど誰も関心を持たなかった、忘れられていて今まで光が当たらなかったことが、少し気にし始められたところですね。

加藤■ナマズたちが月夜の晩でしたか、琵琶湖から田んぼなどへ上がってきたりして…。

川那部■しかし、そういう場所ももう、ほんの一部になってしまいました。子どものころから琵琶湖へは、泳いだり何かするのに良く来ていましたが、当時はナマズはもちろん、ワタカという魚なども田んぼへ上がって来ていた。琵琶湖と周囲は一体で、湖からやって来る魚などはそのあたりのどこでも、ちゃんと「おかず」にしておられたと記憶しています。それがだんだんなくなってきました。

湖沼会議への期待

加藤■最近の琵琶湖の話題は、やはり「世界湖沼会議」でしょう? いろいろな新しい動きが始まっているそうですね。

川那部■今までの湖沼会議では、最初と最後の全体集会はともかくとして、研究者は研究者、行政は行政、住民は住民と、それぞれ別の分科会に集まるというのが、ずっと続いていたようです。この会議はそもそも、いろんな立場の人々がいっしょに考えようというのが、最初からの趣旨だったそうですから、それならそれをごちゃ混ぜにして、ほんとうにいろいろな人が寄り集まって、みんなで議論しようと考えたんです。
 また各研究者は、それぞれ専門用語つまり「業界」用語を使うことが多いのです。しかしそれでは一般の人には理解できない。いや、専門の違った研究者どうしも互いにわからないのです。ですから「みんな普通の言葉で喋りましょう」と。そうすればみんなわかる。いや、それによって専門家も、自分たちの学問の基盤を洗い直せるのですから。

嘉田■それから、漁師さんとか家庭の主婦とか、いろいろ地域で活動をしているみなさんに呼びかけて、「あなたがやっていることこそが大事だ」ということで、会議に参加してもらおうと声をかけました。海外から来た人にとっては、研究者どうしの話よりも、琵琶湖に来てここの人たちの活動をむしろ知りたいようですから。発表予定者の中で、地域の人が一割以上になったようです。湖沼会議も少しは住民寄りになったかな、とも思っています。

加藤■専門の学者さんに専門用語を使わずに、わかりやすく話をしてもらい、住民の方々も聞くだけでなく発表に参加できるなんて、素晴らしいことですね。

川那部■心配する人もいないわけではありません。しかし数年前にやった「古代湖会議」では、専門家の話に住民の人がどんどん質問して下さいました。だからやりようによっては大丈夫と、まあ私自身は一つの試みとして、楽観しているのですが…。

嘉田■その会議でも、沖島の漁協の方に話をしてもらったのですが、それに外国の人がとっても興味を持たれました。

川那部■湖沼会議も、そのあたりからほんとうの論議が始まるはずと、確信しているのです。



琵琶湖周航歌に続くもの

嘉田■湖沼会議にむけて、琵琶湖の新しい歌を作っておられますが、その基本の考えなどお聞かせいただけますか。

加藤■音楽を作ろうという動きもあり、いろんなメッセージを集めようというのもあり、いろいろなんですけれど…。私としては、まだ琵琶湖について知らないことがいっぱいあるので、先ずは性急じゃなく、じっくりと考えてみたいのです。
 どういう歌だったら根が生えるのかは、歌手としての私の課題です。ほとんどの歌は、一過性で終わるものなんです。ほんのいくつかの種子だけが残るんですね。直観だったり、偶然だったり、歌い手の努力だったり、聞いて下さる人々の努力だったり、あるいはその歌の宿命みたいなものだったり。いろいろ複数の条件があると思うのですけれど、いったいどういう種子だったら、人の心とその土の上に残る歌になるのか、それは謎のままなんです。それを解かないとね。

嘉田■加藤さんがまず地域の人たちのくらしの現実にはいりこんで、と言ってくださるのがうれしくて各地をご案内しています。

加藤■いろんな歴史的な事実や、いろんな人の話のなかから、すきまからその人の人生がこぼれて見えるような、あるいは「ずきっ」とくる、「たらっ」と血が流れるような、そういうたった「ひとこと」を集めたいと思っているんです。そのまま歌詞になるものではないけれども、それに触れないと私は、あの「琵琶湖周航歌」には勝てないだろうと…。
 だから、ほんとうに凝縮されたあの歌の次に、もっと具体的に琵琶湖と触れ合った人の、「しずく」が凝縮されたものを私がキャッチできるようにと、それを目指しています。

嘉田■周航の歌はどちらかというと旅人の目、いま考えておられる歌は「地元の目」と言えるでしょうか。

加藤■以前に、「お婆さんからの歴史」というのを雑誌で連載させてもらったことがあって、いろんなお婆さんをピックアップして、その方々に会いに行って話を聞くというのをしたことがあります。
 そのとき、標準語で話すお婆さんからは、なかなか物語が生まれないのです。そうではなくて、昔からそこでただふつうに暮らしてきた農家のお婆ちゃんとかが、そこの言葉で話されるものには、「語り」があるのです。そんな心を大切にしたいですね。

川那部■そうですね。「二一世紀の新しいくらし」をほんとうに考えるためには、土着の智恵が大切ですね。堪えながら、あがきながら、ずっとやって来た暮らしがね。
 言われたような、まさに「しずく」の滴る、そんな歌の完成を期待しております。

加藤■凝縮された一つの歌に辿りつくことを一方では目指すのですが、みんなの努力の渦巻きを全部すくいあげて、いろんなものを作る。そういうダイナミズムが活きるようなものにしたいとも考えております。

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