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館長鼎談

「里山から湖と人間を考える」


2000年10月28日(土)琵琶湖博物館にて

鼎談編集■滋賀県立琵琶湖博物館
総括学芸員 布谷知夫


写真家
今森光彦
里山から考える21世紀
 代表 土岐小百合
滋賀県立琵琶湖博物館
館長 川那部浩哉

間違いなくあれは琵琶湖の匂いですね。そういう「匂い」を撮りたいのです。

何かやっていきたいと、「里山から考える21世紀」という活動を始めました。

根本的に反省して、移行帯、つまり岸辺などの「べ」を復活させないとだめだ。

写真家が動画を作ると・・・

土岐■新作の映像「今森光彦の里山物語」を見られた川那部さんから、まずは感想を述べて頂きましょうか。

川那部■今森さんというと、静止画を思います。そのすばらしさは充分に判っていたのですが、いや、だからこそというか、その今森さんが動く映像を創られるとなると、どんなものができるか。楽しみであると同時に、少し不安なところもありました。正直にいうと、最初はちょっと戸惑いましたが、途中からは、「ああ、これはやっぱ今森さんという静止画の人が、動きを撮ることで成り立っている映像だな」、と思いました。敢えていえば、静止画が動いている、あの美しさが動いている。これは見事なものだと感じ入りました。それに、禁欲的な音の処理もすばらしいですね。

今森■どうも有難うございます。動く映像に関しては、じつは二度目なんです。もう十年くらい前ですが、熱帯雨林を撮っています。動く画像は横長画面ですが、スチール写真も、だいたい横長なんです。それで私にとっては、構図がすごく決めやすい。写真には、画面の中に流れがあります。構図というのは時間の流れを意味しますから、横長の画面であると、時間の流れを表現し易い。だから動く映像を撮るのは、横長の画面を観ている私には、違和感がないのです。

川那部■いつも今森さんの写真を見て感じている、まさにその延長上ですね。画面が動きながら、各瞬間が、いつもの静止画像と同じように、見事にきちっと決まっていると思いました。

今森■今回の映像のロケ自体の期間は、二年と三か月ぐらいなんですけれど、今回の舞台になっているフィールドに出会ったのは学生時代で、それから二十年以上、ずっと見続けて来ているわけです。いわゆる「ロケハン」に、二十年費やしているんです。

川那部■ありとあらゆる場所を熟知していらっしゃるわけですね。

今森■いつどこで何が観察できるか、ほぼ判っているんです。だから、例えばオオムラサキが誕生する場面でも、三十分前には「起こるぞ」と判るわけです。その場所やそこでの生きものの様子を知っているので、必要なシーンを能率よく撮影できました。

川那部■一見「無駄」に見える時間が、大切なのですね。

里山を撮るということ

土岐■あの映像からは、近くに住んではいるが、里山とのあいだに程良い距離をおいて、撮り続けていらっしゃる。そんな感じに見えたのですが。

今森■うーん。プロの写真家というものは一般に、どこへでもあちこち飛んで、それぞれのところで売れる写真を撮るものなんです。でも私は二六才ぐらいから、海外は別として、あとは滋賀県だけで撮っているんです。その意味では、近接した取材です。
 それに里山の撮影では、人との接触がつねにあるわけです。里山というものの成り立ちがそうなんですが、景色を撮影する場合にも、そこにいる人との接しかたが重要な、いや、それなしには成り立たない場所なんです。写真を通して人々の暮らしを、知らず知らずに学んできた、と思っています。

川那部■日本列島はどこでもそうだけれど、とくに里山の場合、自然と人とが長い時間をかけて作り上げてきたものです。だから、一つ一つの場所ごとに違いが、顕著な違いがあるわけです。「里山一般」というものはなくて、各地の里山がある。混ぜて「平均と標準偏差」を求めてみても、やはりうまくはいかないでしょうね。今森さんの里山の映像は、あるところに固執したために、却って一般性が見える点で、面白いのだと思います。



里山での人と生きものとの関係

今森■集落ごとに、生きものの顔も違うように思えるんですよ。ある集落の中を流れている川のアユは、隣の集落の川のアユとは顔が違うとか。そう思って、生きものを撮影していることが多いですね。川や谷とか森とか集落とか、それらが別々ではなくて、一つのセットになっている。その最小単位のセットの中で、逆にいえば各生態系が成り立っている。少なくとも里山の場合はそうではないか、という気がしているんです。

川那部■まさにおっしゃる通りですね。棲み場所によって、生物の性質は変っています。先祖代々、どんな環境でどういう生物とどんな関係を持って来たか、それが生物の体に、少しずつ刻印されていきます。アユは海から溯るから、遺伝的には互いに良く似ているけれど、棲みかたも産卵期も、場所によって違います。
 里山における人のくらしとなると、もっとお互いの関係が強く効いてくるはず。それがどのくらいの時間をかけて、どんなふうに少しづつできあがってきたのか、面白い問題ですね。

今森■川那部さんが今おっしゃったことの中には、土地への執着みたいなものがありますね。生きものがその土地に、たまたま棲んでいるんじゃなくて、その土地にとけあっているみたいな、そういういのちの考えかたですよ。そういう意味で、環境も理解しているんです。
 里山環境はいま、あまりにも急速に変って来ています。この変化への恐怖というか、生きものや人間も含めてですけれど、それは人間の住んできた土地への関心、「土地への執着」をも脅かしているんじゃないか、ということなんです。いいかえれば、土地が変ってしまったら、そこには生きものは棲めず、人間も住めなくなるんじゃないか、という気持なんです。新しいものに変えることだけを考えて実行してきて、古いものをどういうふうに残したらいいか、これをあまり考えなかったという問題です。人間は逃げかたがうまいから、この環境変化に短期的には順応するかもしれませんが、生きものはたいへんだし、人間も長期的に考えれば、住めなくなるんやないかとね。

琵琶湖から水田と里山を見ると

川那部■その変化は、今森さんの里山ではいつごろからでしょうか。私の、とくに京都府の北のほうでの経験からいうと、一九五五(昭和三〇)年から一九六五(昭和四〇)年にかけての変化が、とくに大きいでしょうが。

今森■琵琶湖もやはりそうですね。そして、「琵琶湖総合開発」がその仕上げをした。陸と湖とのあいだの部分がなくなって、湖岸が道のすぐ横まで来ました。ある意味では湖は「近く」なったわけです。ところが意識はうんと遠くなってしまった。そういう不思議なことがありますね。
 琵琶湖は本来、周りは湿原だったんです。陸と湖のあいだの「緩衝地帯」があったんですよ。そしてその背後に田んぼが続いていました。今でも田んぼはそういう環境を随分補っているんですが、湖との行き来はほとんど切れてしまっていますね。いわば、風景が失われたのです。

川那部■草津駅近くのビルの上から田植えの直後に見下ろして、昔の琵琶湖が戻ったように錯覚したことがありました。水田の拡がりだったわけです。農地法が一九九九年に改正され、水田も米の生産をするだけのところとは違う、環境保護などもっと多目的だということになったのです。これを大いに活かさないと、いけませんね。
 陸と水とを分断して、「きわ」で際だたせてしまったのを根本的に反省して、おっしゃったような移行帯、つまり岸辺などの「べ」を復活させないとだめだと最近思い、話したり書いたりしています。里山も、本来は山辺ですし。このような「べ」で、日本の文化は生まれたのですね。

人とともに生きてきた琵琶湖

今森■発表はまだしてませんが、里山のほかに岸辺も撮影しています。もう六年ほど前になるでしょうか、ご老人が来られて、「何してんねん」と。測量士とよく間違われるんですが、このときはそうではなくて、「もっと景色のええとこ知っとるぞ」と、連れていって貰いました。そのとき、一陣の風が吹いたんです、琵琶湖から。そしたらそのおじいちゃん、風に身を任せて「ふーっ」と動いたんですよ。何度目かのとき、車に乗って貰ったところ、私が五歳のころに嗅いだ匂いが充満したんです。祖母が、ふなずしとかを漬けていたときの匂いです。そういう「匂い」を撮りたいのです。フナの匂いでもないし、磯の匂いでもない。うまくいえないけども、間違いなくあれは琵琶湖の匂いですね。
 そして、そのおじいちゃんの連れていってくれるところは、今でもきれいなんです。規模はすごく小さくなっているけれど、昔見た琵琶湖がそのまま残っているのです。琵琶湖はやっぱりね、人とともに生きてきたのです。

川那部■今森さんの写真を見る人に、その匂いが感じられるところまで、そこまでいくかもしれない。

土岐■この「里山物語」にも、かすかな匂いぐらいは感じられると思うのですが、どうでしょうか。
 もう手後れかもしれないという話もありますが、里山について何かやっていきたいと、「里山から考える二十一世紀」という活動を始めました。今森さんの撮られた映像とパネルを中心に貸出して、いろんな人と里山について話す機会が全国で開け、そこに私もお邪魔できたら嬉しいと思っています。とりあえず三年間続けますので、興味のおありの方は、おっしゃって下さい。資料もお渡ししますし、そのパッケージを貸出すこともできますので、一声かけて下さいますように。

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