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「館長対談」

近江中世の「むら」を探る


2002年6月26日 琵琶湖博物館館長室にて
進行/橋本道範  写真/森田光治

滋賀県立大学
人間文化学部教授・図書情報センター長
脇田 晴子氏
日本中世史専攻。著書に『日本中世商業発達史の研究』『日本中世被差別民の研究』『中世に生きる女たち』など。
  琵琶湖博物館館長
川那部 浩哉
「歴史的」とか「伝統的」とかと言われているものには、意外に新しいものが多いんです。 今も信じる人の多い「直線的な進歩」の幻想を、打ち砕くことも歴史の役割ですね。

■中世研究のはじまりは近江

川那部  脇田さんは、お能の達人だそうですね。

脇田 玄人ではありませんが、六歳から始めて、小学校の二年で子方をしました。この秋には彦根の能楽堂で「井筒」、来年には観世会館で「求塚」、再来年は「卒塔婆小町」。それで打ち止めと思ってるんです。

川那部 中世へ興味を持たれたのには、そのことも関係しますか。

脇田 ええ。中世を国文学でやろうか、歴史でやろうかと思いましたから。

川那部 ヨーロッパでも日本でも、中世は暗黒・停滞の時代だと思われていたのが、じつは中々の時代だったし、現代につながっている、と評価されて来ていますね。

橋本 卒業論文のために農村調査に行かれて、商業史のほうに移られたと聞いていますが。

脇田 うちは町家でして…。京都など都市の資本は、平安・鎌倉の時代からあったんです。それに対して、農村から商人が出てきたのは、南北朝の時代からで、この新興商人のことの良く判るのが近江なんです。そこで、それまで全く縁はなかったのですが、近江をやることにしたんです。
 当時はマルキシズム全盛の時代で、農業は生産そのものだけれど、商業は流通だけだからつまらんという考えがはびこってました。「商品経済が入ってその農村がどう変わるか、ということしかやったらあかん」とまで言われたものです。(笑)

橋本 「農村をやらないと歴史学ではない」みたいな、そういう時代がやはりあったのですね。

脇田 それを押しきって商業をやったんですが、古い時代からの町の商売の調査も必要だと感じて、大和そして京都に研究対象を拡げました。


■自治組織が強かった近江の村

脇田 中世の自治は、近江の村がいちばん強いんです。大和にもあるけど、領主権力がうんと強い。

川那部 どんな領主ですか。

脇田 大和には、例えば興福寺があります。法隆寺なんかも強いですよ、支配の仕方が。だから村の自治はあるけど、弱いんです。

川那部 近江にも、例えば延暦寺や三井寺があったわけでしょう。それにもかかわらず、大和より近江の方が自治の強い理由は、何なのでしょうか。

脇田 大和の場合は、興福寺が完全に握っていて、村の土豪を全部組織しています。一枚岩になってるんです。ところが近江には、比叡山のほかに例えば佐々木がいて、その佐々木も二つに分かれています。比叡山の文書が信長に焼かれずにたくさん残っていれば、もうちょっとは比叡山が強く見えるかもしれませんが…。

川那部 なるほど。

脇田 近江に自治が強い証拠の一つに、「むら」がそれぞれ固有の文書を持っていることがあります。それも村箪笥とか、「開けずの箱」の中とかに。

川那部 そのようですね。それが散逸しないように、橋本さんがネットワークを組んで、努力しています。しかし、むらごとに全く逆のことが書いてあったりはしませんか。特に権利をめぐっての争いなどには。

脇田 喧嘩はもうしょっちゅうです。むしろ争論の文書ばっかり。商人に関してもそうで、日常茶飯事の記録は残りません。

川那部 そうでしょうね。夫婦仲が良いだけの話は、小説にもならないし。(笑)

脇田 仲良くやっていたときの「むら」の歴史は書けないんです。ただ不思議なのは、中世は水路でものをすごく運搬していたのに、近江にはそれに関する文書がないことです。道路の修理のほうはあるのに。

川那部 道路は作らなければならないけれど、水は勝手に流れてくるから、とは言えませんか。(笑)

脇田 水路をきっちりするのは大事だし、水利権もあるから。京都の桂用水については、連帯して維持している記録も残っているんです。


■中世から近世へ

橋本 その後、女性史などに研究を拡げられましたが、そのきっかけは何だったのでしょうか。

湊はん志やう画巻
『湊はん志やう画巻』
(大津 札の辻付近のにぎわい・江戸時代)
琵琶湖博物館蔵

脇田 都市には、女性の商人が多いんですよ。それに商業世界では、被差別民が活躍するんです。それで、女性史・部落史に関心を持ちました。

川那部 都市の商業に、農民出身でない人も多いのは、土地を所有しない人が流れ入ったということでしょうか。

脇田 底辺はそうですね。しかし、村落共同体と近江商人は不可分の組織なんですよ、商業座と宮座がね。そして、村から弾かれた人たちや金持ちの子でも浮いた人が町に出てきて、平等な特権団体を組む。警察権や裁判権も行使する自治ですね。

川那部 京都でも自治組織を持っているのは、表通りの人々だけで、路地の人々は違ったのでしょう?

脇田 そうです。そして表通りについては平等で、入座の年齢順で行きます。裏の人は権利が全然違う。その代わり借料やらはうんと安い。だから、すべての構成員によるのではないけれども、自力救済の自治なんです、中世は。道普請を一所懸命やって、その権利を商人が持つんです。関所もいっぱい出来て、通行料を取ります。つまり、家があって、「むら」と言う共同体があって、その連合があって、下から作り上げられているような時代です。もちろんそれを外れたら食い詰めてしまう、そういう厳しさはあります。

川那部 近世になると…。

脇田 統一権力が全部を握ります。関所は撤廃されて、「むら」の収入ではなくなる。「太閤検地」によって、名主と小作人が同じ年貢になる。特許を持っていた座を排除して、自由な「楽市楽座」にするのですが、その自由を享受するのは大きい問屋すなわちご用商人になる。

川那部 「楽市楽座」は近江、安土が最初でしたか。

脇田 楽市の初見は六角氏の石寺、今の安土町です。信長の最初は加納、今の岐阜市です。そして、少し遅れるけれどよく判るのが金森、守山市の金森です。あれは村落領主がお寺になっている。確か川那部さんのところの本家でしたね。

川那部 ええ。四百年ほど前の本家。(笑)

脇田 滋賀県で話をさせられると良く言うんです。信長・秀吉を顕彰して、安土城をやるのも良いけれど、あれは二人とも近江の征服者。まるでマッカーサーのお城を復元するようなものだ、と。(笑)


■男女関係から見た中世の暮らし

橋本 庶民の暮らしはどうだったのでしょうか。

脇田 女性史の立場から言いますとね。平安時代は「妻問い婚」で、男が女の家へ行き、正式な妻が何人いても構わないという体制です。それが平安後期ないし鎌倉初期になるとはじめて、男と女がずっと同居するようになって、そのあいだの子どもと一緒に暮らします。つまり正妻は一人になって、妻の座が確立するんです。どちらも親とは一緒に暮らしませんから、嫁姑関係はない。これが中世の家族のかたちです。それが近世になりますと、いわゆる「嫁入り婚」になるんです。

川那部 ははあ。妻の権利は中世がいちばん強い。

脇田 夫婦と子どもからなる家が仕事の単位ですから、奥さんの力が絶対に強くなります。家内労働がそのまま社会労働になるわけです。例えば近江商人の世界では、だんなが商売に出ていって、家を取りしきっているのはおかみさん、これがほんとうの意味の奥さんであり、ご寮さんです。「むら」には夫のための「本座」があると同時に「女房座」があります。お供え物も、本座は酒一斗に対して、女房座は三升だったかです。分家などが入る「新座」は、その下です。近江の祭礼には、わりに夫婦で一緒にするものが、今も多いんです。近ごろ、竹生島の蓮華会のことを調べていますが、尋ねると「男が中心」と言われるんですけど、あれは、夫婦一緒に舟に乗り、親戚もみな一緒に乗って、だーっと行くんです。


■歴史を振り返ること

脇田 だいぶん前ですが、女性史の講義の感想に、「今の世に生まれて幸せだ」と言うものばかり出てきて困ったことがあります。女性は中世には、まさに社会労働に携わっていました。サラリーマン社会では、収入を持って帰れば立場は強くなるけれど、それが重要なのではありません。

川那部 今も信じる人の多い「直線的な進歩」の幻想を、打ち砕くことも歴史の役割ですね。

脇田 また、「歴史的」とか「伝統的」とかと言われているものには、意外に新しいものが多いんです。相撲や芸能における女人禁制なんて、近世の中ごろに発生したものです。神社やお寺の由来書には、聖武天皇や行基に始まっているものがたくさんありますが、ほとんどが中世の作りごとです。安居院や三條西實隆などが作っていますが、實隆の日記を見れば、頼まれてどのようにでっち上げたか、はっきりと書いています。お能だって、平安時代を素材としたものが、室町時代的に作りかえられているのです。「旧きを尋ね」てその変遷を知れば、現在の位置づけが判り、未来への展望をもつことができると考えております。


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