Go Prev page Go Next page

 Goin' at Field! フィールドへ出よう!

考古学の発掘調査と古環境の「復原」

~滋賀県守山市、下之郷遺跡の発掘~

学芸員

宮本真二
(自然地理学、花粉学)

守山市教育委員会・埋蔵文化財センタ-主事

川畑和弘
(考古学)




下之郷遺跡の共同研究

 下之郷遺跡は野洲川下流域平野の微高地上に立地しています(図1)。現在の野洲川下流域平野の地形分類では扇状地と氾濫原の境界部分に位置します。これまでの発掘成果から、下之郷遺跡は弥生時代中期後半(いまから約2100年前)の三条以上の環濠跡(集落のまわりにほられた堀)や掘立柱建物跡などが検出されています(写真1、図2)。

 これまで下之郷遺跡の環濠跡からは、たくさんの動植物遺体(植物の葉・種子・材・昆虫・大型動物化石など)が発見されています。これほどまでに自然遺体が豊富に検出されるところはとても少なく、当時の人々の生活基盤としての自然を解明するうえで、重要な情報をもたらすものと考えています。

 下之郷遺跡の環濠跡に保存されたいた自然遺物をつうじて、自然科学と考古学という人文科学の、フィ-ルドを同じにした共同研究が芽生えたのです。

 よく共同調査といっても、発掘担当者が採取した試料を分析依頼する「やりかた」がとられていますが、下之郷遺跡の調査では各分野の担当者が、発掘現場にできるだけ出向き、試料の採取方法から議論しています。「モノありきではなく」、「モノをとるところ」から各異分野の研究者が共同で作業しているこに意味があるのかもしれません(写真2)。

写真1 下之郷遺跡第25次発掘調査地。手前の白い○の密集は、集落側で、道路側が環壕跡です。(守山市教育委員会提供)

写真2 環壕跡での花粉化石および昆虫化石のサンプリング状況。左の黄色の長靴が花粉分析用サンプルを採取しているのが宮本。右の黒い長靴の人物が昆虫化石を探している八尋克郎学芸技師。下之郷遺跡第23次発掘調査地。(守山市教育委員会提供)

図1

図2

「壕」・「濠」論争のゆくえ

 今から5年ほどまえの話になりますが、栗東町の博物館で弥生時代の大型建物のシンポジウムに参加していました。その時の議論に、環濠集落の濠の問題があげられました。それは、弥生時代の濠には、大阪城や二条城のように常時水が溜まっていたのかどうかということでした。当時はようやく、琵琶湖の周辺でも、あちこちの弥生集落遺跡で環濠が確認され、ムラの様子が部分的にみえてきた頃でした。そのシンポジュムの司会をつとめられた佐原 真さん(国立歴史民俗博物館)は、席上で、西日本の弥生時代にあらわれた濠は、土へんの「壕」を書いた方が良い。「空壕」であると指摘されました。その点で、「壕」なのか「壕」なのかが問題です。

 弥生の「ムラ」のまわりに大きな溝を掘るということは、いったいどんな意味があるのでしょうか。この問題は、現在までかなり議論されてきました。

 例えば、(1)田んぼに水を導くための灌漑用水路。また、②水害除けの防災施設。(2)戦乱などによる社会的緊張関係にもとづく外敵侵略を防ごする施設。(3)集落の水はけや排水的機能などです。それではということで、琵琶湖の周辺で確認される環壕集落の壕の状態を詳しく検討してみようと思いました。わたしはちょうどその時、野洲川流域の扇状地に立地する二ノ畦・横枕遺跡(図1)という弥生中期末の環壕集落を調査していました。そこで過去に調査された環壕の底の高さを調べてみたり、環壕を埋めている土の中に、水の流れによって運ばれてきた土砂がないかということを観察しはじめました。環壕を埋めている土の中に含まれている花粉や珪藻化石などを調べるため、自然科学の研究者に立ち会ってもらったりしました。その結果、どうやらこの遺跡の大部分の環壕は、水をもたない「空壕」であろうという推測をもつにいたっています。

 その後しばらくして、下之郷遺跡の調査に関るようになりました。下之郷遺跡は集落跡のまわりに幅が6メートル、深さが2メートルもある壕が掘られています。普通の弥生時代の環濠集落と下之郷遺跡との違いは、壕の中に残っている情報量の違いです。下之郷遺跡の環壕は、腐りにくい弥生土器や石でつくられた道具はもとより(写真3)、自然遺体がたくさんみつかります(図2)。これらは遺跡を「理解する」うえで重要な鍵をにぎることになります。下之郷遺跡の壕については「水」の問題も、動植物遺体の調査で新しい展開があります。調査途中ですが、樹木(樹種鑑定)については、「ハンノキ」や「ヤナギ」が多く見つかり、やや水気のある様子がうかがえ、また、葉や種子(大型植物)の出土状況からは、「カシ」や「ナラ」、「ムクロジ」、などのやや乾燥した様子がうかがえます。それから、昆虫については、「エンマコガネ」や「オサムシ」、「ゲンゴロウ」といった棲息する場所や環境を限定しやすものが見つかっています。これらの情報を今後さらに検討していけば、壕の様子がさらに詳しく見えてくるように思います。

写真3 環壕跡でたくさん検出される建築用材。下之郷遺跡第25次発掘調査地(守山市教育委員会提供)

弥生時代の「森」や「川」、「墓」や
「田んぼ」はどこにあるのか?

 弥生時代の環壕に水があるのか、ないのかという問題について、動植物の細かな分析が重要な成果をもたらすことがわかってきましたので、下之郷遺跡で今取り組んでいるのは、古環境を復原する作業です。これは、ムラのどのあたりに川が流れ、森や林がどこにあったのか。また墓や田んぼはどこに作られたのか。さらには、そこはどのような状態だったのかということを復原する作業です。地理学の分野からは、むかし、下之郷遺跡が立地している場所が、どのような地形であったのかを空中写真や地図を判読し、そして現地をみながら弥生ムラのひろがりや、旧河道の位置について検討を加えています。

 これらのいろいろな分析結果をもちより、当時の様子についてわかることを案として描けないかと考えています。今は基礎資料の収集をすすめていますが、時には新たな発見や解釈がうまれ、意見が分かれることもあります。それは、1面たいへん「つらい」ことでもありますが、有意義な議論につながることでもあります。

 1度それぞれの担当者が弥生ムラのイメージ図を描いて、その違いを雑談まじりに比較してみることも、おもしろいのではないかと考えています。基本的な部分で大きな違いがあるうちは、きっと「1枚の絵」にはまとまらないでしょう。でも、それをまとめていけるような議論をすすめれば、さらに細かな復原案と課題が生まれることになると思います。

 今から2000年以上も前の弥生のムラ、その姿はいったいどのようなものだったのでしょう?。集落景観の復原を進めることで、わかりやすい弥生集落像を復原できればと考えています。

 発掘現場は研究者のため、または好きな人のためのものではありません。みんなが共有できる大変たのしい場所です。

 みなさん、ぜひ発掘現場に遊びにいらしてください(写真4)。

写真4 下之郷遺跡第23次発掘調査地の現地説明会風景。みなさんも気軽に発掘現場をのぞいてみてください。(守山市教育委員会提供)

出典

栗東町歴史民俗博物館編(1997)『企画展 湖南の弥生時代―環濠集落・大型建物・銅鐸』。栗東町歴史民族博物館、24頁。

栗東町歴史民俗博物館編(1997)『第15回企画展 草津市・守山市・栗太郡・野洲郡展 大地からのメッセ-ジ―湖南の考古資料展―』。栗東町歴史民俗博物館、22頁。

-6-

Go Prev page Go Prev page Go Next page