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琵琶湖博物館所蔵「東寺文書」解題

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琵琶湖博物館の東寺文書について

2021年12月8日
滋賀県立琵琶湖博物館
  専門学芸員 橋本道範

琵琶湖博物館が所蔵する重要文化財「東寺文書(百七通)七巻、三冊、九十四通」は、京都市南区に位置する東寺(教王護国寺)に伝えられた中世の古文書の一部で、大谷雅彦氏所蔵文書として知られていましたが(網野善彦2007、上島有1998)、1996年3月29日に琵琶湖博物館の所蔵となったものです。2007年6月1日に滋賀県指定文化財となり、2009年7月10日には重要文化財に指定されました。

東寺は、平安京の羅城門の東に創建された寺院で、823年に空海に与えられて以降、真言宗の中心的寺院の一つとして多くの領地が与えられ、祈祷などの宗教活動を行ってきました。そして、その運営は僧侶集団が自治的に行い、活動の記録を大切に保管してきました。その結果、3万点を越える古文書がいまに残され(『国史大辞典』)、日本列島の中世(平安時代後期から戦国時代まで)を研究する上で基礎となる史料群の一つとなっています。

琵琶湖博物館が所蔵する「東寺文書」は、もともとは国宝「東寺百合文書」(京都府立京都学・歴彩館所蔵)、重要文化財「教王護国寺文書」(京都大学所蔵)、重要文化財「東寺文書」(東寺所蔵)などの一部であったと考えられます。1号文書「尼妙蓮譲状」は、寛政年間(1789年~1801年)に松平定信の命によって調査・筆写されたとされる、いわゆる「白河本」(国立国会図書館所蔵)に写しがあり、寛政年間までは東寺に所蔵されていたことは間違いありません(他の文書については未調査)。恐らく江戸時代に、御上神社(滋賀県野洲市)の社家、大谷家のもとに移されたものと思われます。

その内容は、多くは領地に関わるものですが、寺内の運営に関わるものや宗教活動に関わるものも含まれています。東寺の領地を政権や権力者が保証した院宣(いんぜん)、令旨(りょうじ)など、さまざまなポストについたときに提出する誓約書である請文(うけぶみ)、耕地のその年の作柄を調査した内検帳(ないけんちょう)、年貢等の決算報告書である算用状(さんようじょう)、僧侶の会議の議事録である引付(ひきつけ)、依頼により確かに祈祷したことを証明する巻数(かんず)を受け取ったことを伝えた巻数返事(かんずへんじ)など、極めてバラエティーに富んでいます。

また、関係する地域も、京都のほか、近江国吉身庄、船木関、山城国上桂(上野)庄、上・下久世庄、拝師庄、若狭国太良庄、遠江国原田庄などにまたがり、時期も平安時代1通、鎌倉時代7通、南北朝時代21通、室町時代71通、安土・桃山時代6通、江戸時代1通という内訳で(文化庁2009)、1170年から1613年のものまで含まれています。東寺文書を理解する教材として適した構成となっている点が注目されます。

そして、もう一つ重要な点は、1号文書を除いて裏打ち(裏に和紙を貼って厚く丈夫にすること)がなされておらず、中世そのままの形で残されている点です。今後の古文書学研究にとっても貴重な史料となると考えています。

なお、1949年10月に大谷雅彦氏によって整理が行われ、罫紙で作成された封筒に納められ、編年の目録が作成されて91号までの番号が付与されました。琵琶湖博物館では、この番号に沿って、一点ずつ、新たに中性紙の箱を作成して管理しています。但し、その後、重要文化財に指定されるにあたって作成された文化庁の目録では、この配架番号とは別に番号が付与されています(文化庁文化財部美術学芸課2009)。

また、1949年の目録で47号とされた文明18年3月18日の覚永請状は、琵琶湖博物館が入手した時点で、封筒は残されていたものの、原本は失われており、所在不明となっています。内容は東京大学史料編纂所等の写真帳でご確認ください。また、「東寺百合文書」ワ函79号の文明18年廿一口方供僧評定引付3月18日条に写があります。

<参考文献>
網野善彦「東寺文書の伝来と現状をめぐって」(『網野善彦著作集 第二巻』岩波書店、2007年)
上島有『東寺・東寺文書の研究』(思文閣出版、1998年)
東寺文書(滋賀県所有本)|滋賀県ホームページ (shiga.lg.jp)
文化庁文化財部美術学芸課『東寺文書目録』(文化庁文化財部美術学芸課、2009年)
登録文化財 (shiga.lg.jp)

 本稿作成にあたり、高橋敏子氏のご教示を得ました。